※ これは、新聞『アイデンティティ』平成二十四年八月一日号(第五十七号)に掲載されたコラム記事を転載したものです。
「東宮批判に隠された国体解体の国際的策謀」
真正保守政策研究所代表 遠藤健太郎
皇太子徳仁親王殿下と徳仁親王妃雅子殿下に対するいわゆる「東宮批判」が、一部で活発化して久しい。特に「皇室護持」を旨とする主張の中に多く散見するが、この源流が中共(中華人民共和国)主導の「皇室解体」工作である可能性は極めて高い。
もう八年前にもなろうか。工作の存在に気づいたのは、私が泰国(タイ王国)の最高学府であるチュラーロンコーン大学の学生たちと交流の機会を持ち、のちにタンマサート大学の講師らから泰国の政情について情報を得る環境を手にし、当時のタクシン内閣についていくつもの疑念を抱いたところまでさかのぼる。
むろん彼らはエリート層のバンコク都民であり、一般的にタクシン・チンナワット首相に対して批判的な立場であったが、それを差し引いても、タクシンが結党した今はなき泰愛国党(タイ・ラック・タイ党)が王室を軽視し、或る華人の手引きで北京に支部を設けていた事実は否定できまい。
さらに、タクシン内閣の閣僚たちが、結党を禁じられプレーム長期政権下で弱体化した旧泰共産党の元党員たちに彩られていたのも事実である。彼らは共産主義のすべてに忠実だったのではなく、国王を君主とすることに反対してきただけだ。
現在のチャクリー朝(ラッタナーコーシン朝)のラーマ九世、プーミポンアドゥンラヤデート国王陛下は高い国民的人気を得てきたが、王位継承権第一位のワチラーロンコーン王太子は必ずしもそうではなく、第二位のシリントーン王女の王位継承を望む声が秘かに多い。
一方、涅国(ネパール連邦民主共和国)では平成二十年五月、正式に王政が廃止されてしまったが、その背景に涅共産党毛沢東主義派の革命活動があり、平成十三年六月の国王暗殺事件はいまだ多くの謎に包まれたまま、国民に不人気だったギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴが国王の座についたことこそ王室解体の始まりだった。
泰国の首相が華人であることは珍しくないが、明らかに中共と手を組んで泰王室の解体を目論んだ客家系華人の実業家タクシンは、この涅国の顛末の再現を泰国で狙ったのだ。その魔の手から王室を守る力も大きく働いたことから、昨年八月にタクシンの実妹であるインラック・チンナワットが首相の座に就いた現在でもこの謀略は成功していないが、私たち日本民族にとって、同じ魔の手が中共から伸びていることを認識しておかねばならない。
目下東宮に対する誹謗中傷の数々は、徳仁親王殿下が皇位を継承される時から爆発的威力を発揮するだろう。そのためにこそ「廃太子」などということまで口にしておく不敬の輩もいる。小和田恆元外務事務次官ら小和田家(民間人)への批判を雅子殿下(皇族)に被せて平然としていられるのも、およそ「皇室護持」の姿勢から外れる。
しかしながら、東宮批判に乗った者の多くは「皇室解体」の危機を感じてのことであり、そこがこの工作の極めて巧みなところだが、その発信源が中連部(中共共産党中央対外連絡部)なのか創価学会らの関与があるのかはむしろどうでもよく、多くの日本民族までもが皇族に対する人気の有無を口にし始めた姿勢が問題だ。
その源ははっきりしている。占領憲法たる「日本国憲法」第一条だ。国民の総意に基づかなければ天皇陛下を廃位にできるという主旨は、世に言う「天皇条項」ではなく「国民主権条項」に他ならない。皇室解体を目論む工作の基礎である。
日本民族は今、本来の皇室典範を取り戻さなくてはならず、占領統治の中で講和のために呑んだ「日本国憲法」が、少なくとも昭和二十七年四月二十八日に無効となっていることを確認せねばならない。さもなくば私たちはこの工作に侵され、国を失うのだ。