「私は今、怨霊と闘っています!?」
8日夜、私は大阪国際大学の久野潤先生のお誘いで、京都にて旧皇族竹田宮家ご出身の竹田恒泰氏とお会いしたのですが、竹田氏はまずこの言葉から近況を話し出されました。保元の乱に敗れ、後白河天皇に流罪を言い渡され、のちに反省の意を込めて写本した五部大乗経を突き返されて舌を噛み切り、「朝廷を呪う」と言って怨霊と化した崇徳天皇に関する著作を準備されているとの事で、『皇統保守』(PHP出版)に続いてその完成が非常に楽しみです。[画像は京都市内の居酒屋にて。左が竹田恒泰氏で右は私]
その実に面白そうな内容はご本の出版を待つとして、竹田氏は「保守って一体、何を保守するのか」という、まさに私が代表を務める「真・保守市民の会」に相通ずるテーマを話し出されました。
それは「万世一系の天皇陛下を保守する事だ」と。
私は昨今、世界経済が混迷の度を増す中、いよいよ日本人は保守主義の哲学を学ぶ上で、天皇陛下=ご皇室の存在が日本そのものなのであり、2600年以上にも渡って日本人が皇統を守ってきたのは何故であったかを知れば、民族の共助をもって、政府は自ずと内需拡大策を打ち出すべきと分かる、と申してきました。
これは何ら筋違いな話ではありません。姫路獨協大学の金子宗徳先生ともお会いして話した事がありますが、金子先生は「今や保守の主敵は、国家意識なき資本主義エリートである」と言います。
例えば、日本経団連のような「守銭奴集団」が政治に意見する度、まるで「タカリ屋」の様相を呈して、自然を愛し共同体を守ってきた日本人の「心」を見失わせます。そう、私たちが見失い始めているのです。
この「心」とは、古来からの信仰文化である神道に基づき、言うなれば天皇陛下と私たちを一体化させてきたものでしょう。宮中祭祀は神社神道とは様式がかなり異なっているそうですが、四方拝に始まる祭祀を改めて見れば、日本政府が何をすべきかも分かる筈なのです。
ところが、これは竹田氏と八木秀次氏との対談を綴られた前出の『皇統保守』にも出てくるのですが、昭和50年5月29日の参議院内閣委員会で、当時の日本社会党の秦豊議員が「侍従は国家公務員だ」と言い出し、これに応えた内閣法制局が憲法20条の解釈を拡大させ、とうとう侍従による毎朝の宮中三殿への代拝時の、浄衣に笏を持った姿をモーニング姿に変えさせてしまいました。
もはやこれは「革命」的行為と申し上げてよいでしょう。伝統よりも時の人間の理性が勝るとする奢り高ぶった発想であり、共産党が「天皇制」という言葉を使って「国体」を否定し、(現在の民主党所属議員にもその残党がいる)社会党がかくも伝統文化を破壊し始めた戦市民主主義とは一体何ものでありましょうか。
私たちは今こそ共助の力と知恵が試されており、国際情勢に翻弄されがちな経済グローバリズムの中にあっても、日本人がすっくと立っていられる「誇り」を持ち続ける事が絶対的に必要なのです。
天皇陛下は決して権力ではなく、現行憲法に記される「象徴」となった経緯を見れば、そのご存在の意義は明らかであり、ゆえに竹田氏は「天皇陛下が何をしてくれるかではない。それは欧米の発想であって、日本人にとって陛下はただ存在してくれるだけでいいのだ」とおっしゃいました。
その天皇陛下を中心に「和」をもって日本人が結束する限り、世界最古の国家・日本が滅ぶ事はありません。その「和」を乱して荒そうとするのが、ご皇室の存在を否定する売国奴であり、カネ勘定の事しか頭にない守銭奴です。彼らはカネのためなら人をも殺し、民族が互いに殺し合うのを笑って見ているでしょう。これが、一見「平和」「平等」を謳う「反体制左翼」の偽らざる正体です。
大変穏やかで面白いお人柄の竹田氏のお話しを聞けた事は、私にとって極めて有意義でした。久野先生には改めて御礼申し上げます。
下品な東宮批判を展開する西尾幹二氏(注)とはまるで違い、男系継承を守るために宮家再興を提唱してきた私は「やはり間違っていなかった」と思いました。
−遠藤健太郎ブログ10月9日記事より転載−
(注) これは、決して西尾幹二氏を下品と言っているのではありません。東宮批判のアプローチに対して「下品な」と書きました。私は個人的に小和田家周辺の外務省人脈と宮内庁の現体制を批判してきましたが、徳仁親王殿下及び雅子妃殿下を直接的に批判しません。そのようなことを思いつくのも間違っていると考えています。平成18年のオランダ療養の際にも、小和田家の東宮に対する姿勢を糺そうとはしましたが、雅子妃殿下を「適応障害ではない」などと断じ、妃殿下を庇われる徳仁親王殿下をも批判する言論は、まんまと天皇不要論を展開している極左団体に利用されてしまうでしょう。現に、「皇太子が天皇になった時点で天皇制廃止」などと、何処を切り取っても不敬に満ちた言葉で扇動されているのを散見します。そこでは「あの右翼の西尾も言っている」などと曲解されているのです。これは恐らく西尾氏も不本意でしょうが、このような事態に陥ることさえ想像出来なかった氏の軽率さが招いた結果です。これを繰り返してはいけません。
代表 遠藤健太郎